新聞を読みはじめてから、宇宙を研究する人たちの考え方って素敵だなあと思うようになりました。
それまでは星空を見上げて目をキラキラさせる少年みたいな人たち、というイメージだったけれど、宇宙物理学者のコラムを読むとむしろ聖職者のような、物事を見る目の寛大かつ壮大さと、凛とした美しさを感じます。
タイトル買いをした『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで (ブルーバックス)』(三田一郎/講談社)は、そんな私の印象を裏付けてくれる1冊でした。
真実を解き明かしてしまうほどのひたむきな情熱は、たしかに“神”と繋がっているんです。
科学に神を持ち出すのは卑怯なこと?
(2024/10/09 08:33:19時点 Amazon調べ-詳細)
この本が書かれるきっかけになったエピソードとして、高校生からのこんな質問が紹介されています。
「先生は科学者なのに、科学の話のなかで神を持ち出すのは卑怯ではないですか」(中略)科学とは、神の力を借りずに宇宙や物質のはじまりを説明するものであるはずなのに、最後には神を持ち出すのは卑怯ではないか、と言っているのです。
過去300年間に大きな業績をあげた科学者300人のうち、8割ないし9割が神を信じていたという調査結果があります。
著者自身も、科学者であることと、神を信じることが矛盾しないという考え。それを一般の人に説明するにはどうしたらいいか、が本書のテーマです。
ですが、この問いへの結論は腑に落ちました。何がなんでも神のことを知りたい、近づきたいというひたむきな情熱が、偉大な発見に繋がるということです。
「神」と「思考停止」はイコールではない
奇跡でも悲劇でも、私たちは何か説明できないことがあると「神」を持ち出します。
分からないから、とりあえず「神」のおかげ(あるいは原因)にしておこうと。最初に引用した高校生の卑怯じゃないかという質問も、ここに意図を見いだせます。神を持ち出すことは、思考停止を意味しているんです。
しかし、科学者の信じる神と、思考停止は絶対的にイコールで結ばれません。むしろ、どんなに大きな発見をして宇宙の神秘を解き明かしても(=神にしかできない領域を制限していくこと)、すべてを理解したとは思わない。
だからもう一歩、神に近づこうという意欲を駆り立てられます。「もう神は必要ない」としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。
科学者の信じる神は「教会」や「宗教」ともイコールではなくて、宇宙や地球、人類を作った最初の何か、と言い換えることができます。本書に出てきたエピソードを借りると、太陽系の模型に“制作者はいない”といえば誰も信じないけれど、太陽系が設計者も制作者もなく出現した、と考えるのはおかしくないか? ということです。
知らないままのほうがいいってことは、世の中にたくさんあります。神に近づきたい一心で偉大な発見をした科学者を、かつての教会は「聖書と違う」と認めず罰した…という悲劇的な歴史からは、処刑される側よりする側の怯えがひしひしと伝わってくる。
けれど、そんな時代においても研究を止めなかった科学者たちを思うと、これが私の抱いた凛とした美しさに繋がるのかなと思うのです。
(2024/10/09 08:33:19時点 Amazon調べ-詳細)