舞台は豪華客船、“呪われた小説”をめぐる物語と知った瞬間から、発売日を楽しみにしていた恩田陸の「鈍色幻視行」。いちばん好きな作家で、あらすじも好みど真ん中だったので、都心の大型書店に連絡してサイン本を取り置きしてもらいました。
わたしはどちらかと言うと、小説の実写化には後ろ向きなほうです。けれど、「鈍色幻視行」を読み終えるや、映画館にいるじぶんの姿がぱっと思い浮かびました。映像でも見てみたい、と思う作品です。
【あらすじ】冬、2週間の豪華客船クルーズで
「鈍色幻視行」の舞台は師走の豪華客船。神戸の港を出て中国、ベトナム、香港へと巡る2週間の出来事が描かれていますが、基本は船内での会話がメインです。乗船客はもちろん華々しいひとたちばかり、そこには1冊の小説で繋がる関係者たちが集まっています。
彼らを結ぶ小説というのが、映像化しようとするたびに死人が出てお蔵入りしてしまうという曰く付きの原作。まさに“呪われた小説”です。
作家である主人公は、関係者が集うこの機会にインタビューを行い“呪われた小説”についての本を書きたいと考えています。“呪われた小説”に関わり不幸な死を遂げた人々、残された人たち、そして、作品と同じくらい謎めいた原作者について。
この作品の……というか、恩田陸のすごいところは本作に出てくる“呪われた小説”すらも1本の長編として書き上げてしまうこと。「鈍色幻視行」に次いで“呪われた小説”こと「夜果(よるは)つるところ」も実際に刊行されます。
自分(読者)の席が用意されている

わたしは本格ミステリというジャンルが好きだし、解決編や読者への挑戦状がある作品はワクワクしますが謎解きに挑もうとは思いません。読みながら探偵の推理に「なるほど!」と驚いて満足するタイプです。
それは恩田陸の作品だって例外ではありませんが(※本作に挑戦状等はありません)、でも他よりも考えながら物語に向き合っているなと思います。
それは会話という心理戦を繰り広げている登場人物たちと同じ目線に立っているような気がするから。発言こそしないものの、彼らの一員に加わっているような、自分にも席が用意されているような感覚があるからです。だから、真剣に考えてしまう。
ぼんやり実生活を送っているとき、不意に「あのときの違和感は、もしかして…」とひらめいてワクワクしながら続きを読むんですが、まあかすりもしていません(笑)けれど、考えることでそこにまったく違う別のストーリーを幻視していたと考えると面白い。
「読むことは書くこと」「物語の行間のあいだに、自分が書くべき物語が見えるときがある」といった恩田陸の言葉を思い出して、共感して、だから彼女の作品が好きなのだろうなあということを改めて考えました。
作家には2つのタイプがある
ーーひとつの事実があればーー目に見えるものがあれば、いくらでもお話が作れるってことね。
はっきり言おう。真実があるのは、虚構の中だけだ。
呪われた小説の関係者ということもあり、本作の登場人物は作家、編集者、映画監督、女優、評論家とクリエイティブな稼業についている人たちがメインを占めています。テーマが小説そのものなので、創作論みたいな話もちょいちょい出てきて興味深いです。
なかでも「作家には2つのタイプがある」というくだりは印象的で、それじゃあ恩田陸はどっちだ、呪われた小説の作者はどっちだ、この類型から導き出される真相(かもしれないもの)はなんだと、やっぱり物語と現実とが混じり合いながら考えている自分がいました。
ちなみに2つのタイプを簡単にいうと「自分のために書くか、物語のために書くのか」という違い。思えば、下手な小説指南書よりも本質的で実用的な内容が充実していました。
観たい、観たくない、もう観ている

最初の感想に戻ります。「鈍色幻視行」を読み終えたとき、映画館で本作の実写化作品がはじまるのを心待にしている自分の姿がありありと思い浮かびました。豪華客船が舞台というのはもちろん、個性がぶつかり合う会話劇に音声や映像がついたらさぞや迫力に満ちるでしょう。
一方で、もうすっかり脳内でビジュアル化は果たされてしまっていて、リアルでの実写が“わたしだけの幻の1作”を超えてくることはないだろうなという思いもあります。
たとえ同じ小説を読んでいてもみんなが違うイメージを抱いていて、100%の共有はありえない。それが小説の不自由さであり魅力であり、とんでもない奥深さだなと。
小説を読むことの面白さに改めてふるえました。