愛が人を破滅させるというのは聞いたことがあるけれど、はたして、愛することそのものが悪になる、ということがあると思いますか。
山田詠美の長編小説『ジェントルマン』は、残酷な本性を隠し持つ男を愛し、自分の心を捧げた青年の物語です。
同性を好きになる指向を持つ主人公が、美しくも残酷な同級生を愛してしまう物語なので、一般小説でありながら、BLとも呼べる要素を含んでいます。
展開や結末のネタバレはしないよう十分に気をつけていますが、感情を抜きに語ることのできない物語だったので、「何も知らずにまず読みたい」という方は、読了後にまたこのページに戻ってきてくれると嬉しいです。
人生に伏線なんてない。あるのは運命、という残酷な美しさ
この物語は、報われないと知っていながらも愛し抜くことを選んだ人物の心理を痛々しく描き、常軌を逸した濃密な関係性を描いた作品です。
皆、彼に近付きたがった。だって、そこには、言葉にしようのない魅力が漂っている。わざとほつれたままにされたような洗練に似たもの。彼は、オーラの着崩しに長けていた。
主人公の夢生(通称、ユメ)は高校時代、人気者の同級生・漱太郎の残酷な一面を目撃してしまいます。
これまでは、誰からも愛される“ジェントルマン”のような漱太郎に、むしろ不信を抱いていたユメ。しかし彼の悪魔のような所業を目の当たりにした瞬間、自分の人生から彼を追い払うことができなくなるほど、強く愛しはじめてしまいます。
高校を卒業し、別々の進路を経て社会人になっても2人の交流は続き、ユメは「自分だけが本当の漱太郎の姿を知っている」ことに満足を覚えます。
残酷な本性を隠してそつなく振るまい、誰からも愛される漱太郎。しかし思いがけない衝動が、運命を決定づけてしまいます。
込み入った映画なんかを観て、どうしても理解出来なくて、もう一度、見直すことってあるでしょ? そうすると、あっちこっちに伏線があって、ああ、なるほどって思う。でも、そんなの映画の中だけの話ですよ。人の行動に伏線なんかない。衝動しかないんだ。あと、運命しか
最後のページを読み終えたとき、技巧的にはそれを伏線といっていいのかもしれない。
けれどそこに残ったのは、運命のピースがはまったような、冷え冷えとした美しさでした。
ハッピーエンドであっちゃいけない、でもハッピーって何だ?
基本的に、私はハッピーエンドが好きです。ままならないことの多い世の中で、せめて物語のなかだけでは、すべてが幸せであってほしいーーそんな気持ちがあります(現実どうした…って感じですが、深い意味はありません笑)
しかし『ジェントルマン』を読み出し、漱太郎の本性が明かされる冒頭で、「これはハッピーエンドであっちゃいけない」という直感が、警報のように頭のなかで鳴り響きました。
バッドエンドであるべき、それが唯一のカタルシスーーそう思わせるほど、漱太郎の本性は悪魔的であり、それに魅入られてしまったユメの恋は、あまりにも危うい。
けれどユメの深い恋愛が描かれるほどに、「本当のしあわせとは何なのか」という問いが、読者の側に突きつけられます。
「目だけじゃないんじゃない?ユメは、色んなとこが、おれのための感覚器になっちゃったんだよ」
(中略)
「おまえは、それしか能がない下等動物になっちゃったんだよ、ユメ」
それの何が悪いんだ、と夢生は、ぷいと横を向く。夢中になればなるほど、人は幸せに退化して行くものなのだ。
この作品について考えている途中、ふと週刊紙で見かけた、小児愛者の男の記事を思い出しました。
彼が語ったのは、「小学生から中学生までの男の子を見ると、心がときめいて、ワクワクする」という言葉。
「心がときめく」も「ワクワクする」も、世界が明るくなるようなポジティブな感情です。それが、その男にとっての本心なのだろうと感じ取れてしまったからこそ、私はとても恐ろしくなったのでした。
自分に理解できないだけで、存在を否定できない感情や関係は、きっと人の数だけあるのでしょう。
客観的に起こった出来事だけを見れば、この物語の結末に、バッドかハッピーかの名前を与えることはできるかもしれません。けれど、自分のなかで見いだした答えが唯一ではない、ということだけは確かです。


