本を読む手がふと止まってしまうことがあります。
好きな作家で、雰囲気も嫌いではないのに、なぜかページが進まない。恩田陸の『灰の劇場』も、そんな作品でした。
「これは事実に基づいた物語」二人の女性はなぜ橋から飛び降りたのか?
『灰の劇場』は実際にあった、三面記事をもとに作られたフィクションと、その三面記事が心に刺さり続けた作家のノンフィクションを織り交ぜた作品です。
初めて読んだとき、途中でぴたりと読むのをやめてしまい、しばらく経ってまた最初から読み直しても、また途中で止まってしまう。そんなことを繰り返し、3度目の挑戦でようやく、最後まで読み切ることができました。
ようやく読み切れた理由は、今回こそ読み切るんだ、という強い気持ちがあったからだと思うのですが、「なぜ読み進められなかったのか」の答えが、未読部分で見つかりました。
考えてみると、これまで私は主人公が最後に死んでしまうという話をほとんど書いたことがない。(中略)しかし、今書こうとしている小説は、最後に二人のヒロインが死んでしまうことが最初から決まっている。
『灰の劇場』は、一緒に暮らしていた二人の女性が橋から飛び降りた、という短い新聞記事をもとにした作品です。
作家である「私」は、デビュー直後にその記事を目にし、名前も顔も知らないはずの二人のことが、なぜか心に刺さって離れなかった。
それから26年後、記憶にしか存在しなかった記事が、編集者の手によって見つかり、「私」は改めてその二人を、物語として描こうとします。
ノンフィクションでありながら、フィクションとして描かれる女性たちの生。彼女たちがこの世界から「退場してしまう」ことが最初から決まっているという前提が、読者である私にも、どこか重たくのしかかっていたのかもしれません。
そして、『灰の劇場』そのものが現実と虚構のあわいを行き来する作品ですが、実際のあとがきで明かされた真実にまた血の気が引くような気持になりました。現実は小説より奇なり、という言葉をしみじみ実感します。
抵抗を感じながらも、なぜこの物語に惹かれたのか

もともと恩田陸が大好きで、作家への信頼はもちろんありますが、それ以上に、文章の中にある感情が、あまりにも自分のものと重なっていました。
たとえばこの一節。
一千万都民の匿名の一人でいられる。地方出身者が東京を目指すのは、とにかく匿名になりたい、「誰それの娘が昨日あそこにいた」と名指しされることのない場所に行きたい、というのがいちばんの理由だろう。
東京に出てくる若者は、「何者かになりたい」という憧ればかりではなく、むしろ田舎にウンザリとしている背景には「みんな、もうほっといてくれ」という感情が隠されている。自分の中で長い間うまく言葉にできなかった気持ちが、はっきりと浮かび上がりました。
書き残すことは、まだ世界を信じている証なのかもしれない
作中には、幼い頃に書いた「遺書(のようなもの)」のエピソードも登場します。
子どもの頃に、遺書(のようなもの)を書いたことがある。(中略)唯一はっきりと覚えているのは、あたしのお気に入りだった熊のぬいぐるみは捨ててください、と書いたことだ。
妹が欲しがっていたけれど、誰にもあげません。あれはあたしのものなので、あたしがいなくなったら、しょぶんしてください。
私自身も、似たような「書置き」をした記憶がよみがえりました。
それは両親への当てつけで、姉という立場の不満だったと思います。あの時は泣きながら書くことで、渦巻いていた毒はすっかり吐き出されてしまい、読まれない手紙と少しの後ろめたさだけが残りました。
自分は去ると決めて、なぜ残された人たちに手紙を書こうとするのか。『灰の劇場』を読むと、それは子どもながらの「抗議」でもあり、「世界にまだ何かを託したい」という感情だったのだと、今では思います。
今ならば、分かる。遺書や手記を残すのは、まだ世界を信じているからであると。あるいは、まだ世界をーーあるいは、まだ自分を愛しているからだと。
現実で遺書を残すのはまだずっと先になりそうだし、もしかしたら書く暇もないかもしれません。
しかし自由意志で選べるなら、私は自分がいなくなった世界に、何かの言葉を残したいと思います。


